ご存知ですか? 仙台市長から記念碑建立趣意書届く

歴史が好きな方には感慨深いかもしれません。

現在の神田川の飯田橋駅「牛込橋」から秋葉原駅「和泉橋」の間、約3.2KMは1620年及び1660年から1661年にかけて仙台の伊達家がその開削を行ったことから「仙台堀(濠)」と呼ばれていました。

司馬遼太郎「街道をゆく36・神田界隈」には以下のように記されています。

ともかくも家康入国以来、江戸でおこなわれつづけた土木工事は大変なものであった。一例をあげると「神田御茶ノ水掘割」である。いま聖堂のある湯島台地と、神田山とはもとはつづいた台地だったが、ふかく濠を掘ってこれを切りはなし、その人工の渓に神田川の水を通したのである。現在の聖橋は、関東大震災後、昭和3年にかけられた橋で湯島台と駿河台をむすんでいる。下はふかぶかと渓をなし、神田川が流れている。この掘削は江戸初期の工事である。施工いっさいは、仙台の伊達政宗がうけもったという。着工は大坂夏の陣(元和元・1615)のあとで。元和年間というから、その間、家康の死があった。家康は命じただけで着工の風景は見なかったにちがいない。工事ははかどらなかった。おそらく断続しておこなわれたのだろうが完工したのは約40年後の万治2年(1659)という大工事であった。

人工の運河として本郷台地を切り通し湯島台と駿河台とに分けるという当時非常に困難な工事だったことが伺えます。困難な中にも出来上がったその濠は江戸城の外濠の役割を果たすとともに通船にも利用されました。現在の御茶ノ水付近の人工の谷の渓谷美は「茗渓」と呼ばれ、江戸・東京の人々に350年以上に渡り、親しまれてきました。

1964年(昭和39年)の河川法改正により外濠は河川に組み入れられ井の頭池から隅田川合流地点までの全長約25kmはその名称が「神田川」に統一されたことからそれまでの名称が消えていくことになりました。

河川法改正から50年を機に、仙台堀(濠)のあった地に歴史の業績を示す石碑の建立を申請されてきたものでした。

参考)朝日新聞出版 街道をゆく36・神田界隈 / Naverまとめ東京近郊コンクリートアーチ橋コレクション / 東京の川と橋 / 備忘録として

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